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2009年7月 4日 (土)

1000件目の記事/青山から秋葉原へ/お世話になった人々

ブログを始めて、数年経ちました。
改良したいところがあり、デザインを変えました。

当時、お世話になっていた職員共済青山病院を去る頃でした。
青山病院では新田義朗院長先生のもと、木々に囲まれた病院で診療に当たりました。少しハミカミながら、院長室で色々なお話をお伺いするのは楽しいひと時でした。お元気なうちに、共著論文を数本お渡しできたのは幸いでした。
新田先生は青山病院の建て直しの後、多くの人々に惜しまれながら逝去されました。海が見える小高い丘の、木々が生い茂る飾りのない場所に眠られている事を伝え聞いています。いつも控えめで、努力を怠らなかった名医にふさわしい場所かもしれません。
しかしながら、新田先生の微笑みは、私の心に、木々の葉に覆い隠されること無く、鮮やかに刻まれています。

その後の鳥屋先生の薫陶も非常にありがたいものでした。青山病院では、全力で診療に当たるのと同時に、病院ビオトープについて発表を行ったりしました。病院が有する森がエコロジカルにも有用であることを示したものです。
病院の庭にあったシイの木は、東京がスダジイの林だった頃の名残であることを明らかにしました。東京都の予算を獲得し、日本生態系協会からの調査委員さんを招聘して行った本格的な調査です。
私からの病院建築への心からの感謝の念でした。建築物としても優れたもので、日本建築学会へ取材に行ったことを思い出します。残念ながら、職員さんで意味を理解してくださる方は少なかった。

土構造物をつくる新しい技術 (ニューコンストラクションシリーズ) 土構造物をつくる新しい技術 (ニューコンストラクションシリーズ)
平間 邦興、山海堂  1994-11

本質的ではない院内の揉め事でへこんでいた、夏の日のある日のことです。
大きなシイの木が作る陰の下で、平間邦興さんが『ぜったいに、あきらめないでがんばるんだよ』と励ましてくれました。セミが沢山鳴いていた。
あの一言が無ければ、青山を去っていたかもしれない。
忙しくしていた昼間に届いた突然の訃報。
救急外来から晴れた空を見上げて涙を流した日は忘れられません。彼もこの世にはいませんが、私の心に静かに生きて続けています。

プログレス インターラクティブの方に、オリジナルのブログを作ってもらったのは、その頃でした。

頭痛の本や、こどものおいしゃさんの本を作りながらの作業でした。
新水社や篠原出版新社の方々には、こどもの城周辺でランチの時間を使ってあわただしくお会いしました。ルーチャンというレストランはもうありません。

黒岩さんや、和田秀樹先生とお会いして、福祉チャンネルへ出演したことも懐かしく思い出されます。アレンジしてくれた黒田さんありがとうございます。

その後、松戸の病院を手伝ったときには、写真家の山岸伸さん御一行がみえられたりして、楽しい日々をすごしました。
当時、松戸には片頭痛なし、と医師会のある先生から言われていました。

私は、頭痛の患者さんはどの地域でも、辛い思いをされていると感じていました。
地域のコミュニティ誌、『月間新松戸』に色々な医療記事をお書きしました。

予想通り、何人もの頭痛の患者さんが治っていきました。

同時期、島崎謙治先生と日本各地の医療機関へ見学に行きました。
晴れた日、谷川俊太郎さんの紹介で知ることとなった、徳永先生の病院を訪れたことも、このブログにつづりました
島崎先生との読書会は今でも続いています。
井部聖路加看護学長さんから頂いた観葉植物は、クリニック内で成長を続け、もうクリニックのドアから出すことは困難になってしまいました。お会いするたび、井部先生の〝ざっくばらん〟なお話にはびっくりします。みなさんもびっくりされているようです。

秋葉原デパートの一階にあった、陳さんのラーメン屋さんで幾度もラーメンを食べながら、目の前のビルで開業するかどうか迷った日々。
ニラの辛子漬けがおいしかった、このお店も今は無く、7階建ての駅ビルに変わろうとしています。何の支えも、バックアップも、お金もなく、あるのは脳みそと技術だけ。地球上に立ちすくむ小さな一人の人間として、星空を見上げました。でもかえって、それが良かったのかもしれません。

迷っていてもしょうがないので、とりあえず色々な方に意見を聞いてみることにしました。
その後の数多くのプレゼンテーションと、共鳴してくださった方々。クエストの滝田さんにはお世話になりました。BANBOOを御紹介することができました。

IP20さんにディバックにパソコンを入れて、パワーポイントのプレゼンを行いに汗だくでうかがった日も思い出されます。本来お会いすべき担当者ではない、小山さんに偶然お会いしたことが人生を変えました。新工場へも招待していただきました。

iTicketさんにもお世話になりました。『ジャム型外来』と『オープン型外来』についての論文もしたためることができました。クリニックはファブレスになれるのか、患者さんの満足を高めながら、一見無理に見える保険診療の(マイケルポーターの提唱する)オペレーション効率を上げながら、選択性を高めることができるのか。渋滞学を通して書き上げたものです。

こうした医療の未来系について、グッドデザイン賞の現場でお話したことを、昨日のことのように思い出します。

それからは、さらに全力疾走の日々でした。
オンラインレセプト化、分からないことだらけでした。松井(弟)さんが今でもバックアップしてくださっています。電子カルテ、ダイナミクスの仙人のような専門家です。

有沢さん率いるアストラカンや、博報堂の南部さん、鉄球さんには頭痛の本の装丁、クリニックの思想的デザイン、決済システムについてお世話になりました。UNcafeを懐かしく思い出します。

手探りの開業以来、事務さんのスタッフ交代なく、楽しく進んできました。OJTそのままに、彼らは本当に働き者で、素晴らしいスキルを発揮してくれてきました。私自身もOJTで不十分なのに・・・厳しい医療経営の中で本当に良く踏ん張ってくれたと思っています。発展的に増員、交代する予定になっているのも、一区切りのような気がします。
人生、変化が色々あるので、同じ方々と永遠に一緒に仕事を共にすることは難しい。でも、落ち着いたところで、また御一緒したいと思っています。新たな人員も、有料求人広告に出さずにネットで告知することなどで、応募をいただけるようになりました。

こうやって振り返ってみると、気持ちよく1000本目の記事を書けてよかったと思います。
ブログを始めたころには、全く予想できない変化を実感しています。

診療を行いながら、4冊目の本が世に出ようとしており、毎週の新聞のコラムも綴ることになりました。
『一見、水の無い乾いた土地のように見えても、その下には地下水脈の遭う瀬があり、それを水無瀬と呼びます。人のご縁もそのようなものでしょう。』と自己紹介された、水無瀬編集長さんには本当にお世話になっています。

今週は、一歩ずつ前に進むための重要な会合がいくつか待っています。
国連大学の内田先生のプロジェクトも進んでいるようです。

何も変わらないところ。
変化していくところ。

大切なことは、そのまま。
時間を経て変化していくのなら、より良い方向へ。

ゆっくり確実に、一歩一歩。それが一番大事だと思っています。

今日の早朝、エスプレッソを入れて、パソコンのスイッチを入れました。
そして、新しいワードの書類を作り、1行目を書きはじめました。
始めての形態の文章です。
今日の、この一歩がなければ、明日の二歩目が無い。
ただ、その事実が静かに存在するだけです。

皆さん、ありがとうございます。色々な方の笑顔が浮かびます。
沢山の方々とディスカッションした声が今も聴こえるようです。そして、これからも新たなディスカッションをしていくことでしょう。表現されたさまざまなことは結果でしかありません。
地下水脈が出会うような信頼される地道な仕事がもっとも大切で、それは、人々ののどを潤わす水の源となります。近道はどこにも無い。

今朝の1ページが、未来の翼にならんことを願っています。

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