イースターの課題をやり終わり、星のステッキをもらいました。カブも買ってみました。
人の接触を減らす重要な時期です。しっかり家にいて論文や本を読んでニンテンドーにお世話になっていました。
別な島へ、釣りに出かけると大雨の竹林の離島。
明らかに他の島と雰囲気が違っていました。一つ前の島が曇り空だったので、少し不思議に思っていたところでした。
雨が降ると釣りがはばかる、とニンテンドーDSのころに覚えていたので釣りを続けました。
すると、なんとまずマグロが釣れました。びっくり。その後、シーラカンスが!?
カジキマグロが釣れたので、そのまま岩の方に移動するとリュウグウノツカイも釣れました。
前日の釣り大会と、今朝のイースター のご褒美かもしれません。
博物館に寄贈して、静かに水槽を泳ぐシーラカンスをしばらく眺めていました。
このような作業は、連続しているものです。釣竿の作り方、マイルをためて離島に行くやり方、手持ちの物品を増やしておくこと、などなど。少しずつ、島に暮らしているうちに機能拡張や預金が増えてやれることが増加しています。
昔は、テントで川も渡れなかったし、はしごがないので山も登れなかった。僕は、ゆっくり味わいながら、失敗しながらほんの少しずつアイテムを増やしています。預金もそれほどないし、お金ない時には斧を沢山自作して、沢山ハチにさされながら大量の木を叩いて家具を作って売っています。時間軸をいじらないから成長はとっても遅いかもしれないけれど、それが楽しい。
不自由さからちょっとずつ解放されていく過程が楽しいから、即座に与えられてしまうとかえって損した気になると思う。
ぼんやりとゆっくりゲームをしながら、1月末から考えていた「ポスト・コロナ」のことを思い返していました。その通りの展開になっています。
僕らの今の社会は、いろいろなパッケージが上手になり流通も整いweb網が発達して便利になっています。おいしいものがワンクリックで手に入るようになりました。
幼かった頃は、バスケットをもって裏の八百屋や肉屋、魚屋さんそれぞれ離れた所へ買い物に行く必要がありました。ウエブサイトもなく、携帯もない世界です。待ち合わせがうまくいかないというのは日常茶飯事で、駅の掲示板がフル活用されていました。
川で釣りをしたりカニを捕まえたりしていたので、事故で亡くなったり溺れてしまう子供も今よりもすごく多かった。公園で怪我をするからといって、遊具が無くなってしまう今とは大きな違いです。僕も木から落ちて怪我をしたことがあります。
切り傷や擦り傷なんて毎日でした。一匹のトノサマバッタが疲れるまで追いかけると、下はみていないから枯れた草なんかがスネに刺さったりもしていました。
駅止めの貨物でミカンが届いたりして、重たいものを家まで運んだ記憶があります。宅急便もありませんでした。それほど昔ではありません。海外旅行なんて、夢のまた夢でした。福引の一等賞も国内の温泉旅行だった。今では、学生さんの修学旅行。
人は、すでに得られているものを当然として、失われる物に対して大きな喪失感を感じる生き物です。
ポスト・コロナの時代は、少しどうぶつの森の初期の頃と似た世界になるかもしれないと思っています。他国へ飛行機や船であっというまに行けるような色々人間が組み立てていたものが「当然の存在するもの」ではなくなる。
また、光学迷彩で見えなかったものが、危機の霧によって輪郭を現しました。信頼に足る物でないことが露呈したり、本来の姿がチラッと現れたりしました。
まずは、その喪失感。
次に私たちがやらなくてはいけないことは、「ポスト・コロナ」の生活の再構築です。
このウイルスは、すでに僕が1−2月にお話ししたように季節性のものになっていく。そうであれば、感染を避けるための生活は変わらざるを得ない。大流行が収まってもワクチンや薬ができるまでの間、換気に気をつけて密集を避けなくてはいけない。
東京では難しい課題だけれども、消防法の徹底にも通じるから良いことかもしれない。消防署は、厳しいです。換気するための構造計算を提出して認可していただく必要があります。短い時間で、室内を換気できることを証明する必要があります。都合2回クリニックを作っているので、その厳しさは身に染みています。
人々の自粛が解かれたあと、もう同じ環境には戻れません。
「マスクして接客は失礼」なんて言っていた頃が遠い昔のようでしょう。
僕は警鐘を鳴らしていたけれども、発症者の乗車する路線を調べ上げて全国放送していたのはどうなってしまったのか。新規発症者数百名についてそれぞれの路線や訪れた店舗を羅列しなければ論理的におかしいはず。また、自分たちは非感染の観測者であるとの立場でコメントしているメディアの方々こそが高リスクで、必ず発症することも予言していました。全て、その通りになっています。
他にも、いろいろなことがコロナ以前の状況と異なってしまっています。コロナのなかったパラレルワールドにいくことはできない。
そして日本人は、トップより市民個々のインテリジェンスの方が高いことや、メディアが視聴率のために国民の命を犠牲にしてパニックを誘導しかねないことも証明されました。長文でブログを書かざるを得なかった頃が懐かしい。
一方その経験を経た市民の私たちの方には、ポスト・コロナの世界を再構築していく力が備わりました。患者さんたちは、ブログの内容と違わず進んでいったことに安堵してくださっていました。
たぶん「ポスト・コロナ」の予想もその通りになるんじゃないかと予想しています。
コロナ存在下で、学校が再開し人々の移動が始まる。そして、もうすぐマスクもアルコールもあふれはじめるでしょう。
物がない時でも頑張ったことは自信につながるに違いない。頑張って新たなコロナに負けない共存する世界を作っていきましょう。以前存在しなかった、「衛生コンサルタント」のような新しい産業や資格も生まれることでしょう。
きっと世界中の人が、何も言わなくても外出後に手を洗ってウガイをするようになるんじゃないかと思います。その結果、全ての感染症が減ることは人類にとって大きな進歩です。
失うものばかり、じゃない。コロナショッックで得る物が大きかった、としなくっちゃ。
何より、国民の経験値が上昇し、覚醒したと思っています。それが、一番の「ポスト・コロナ」かもしれない。
人を忖度しないウイルスという自然物理学の津波は、人間の行いの真偽を明らかにしました。