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2020年10月 8日 (木)

日本学術会議の議論への考察 / 存在意義と覚悟

Hituji_20201008142501

僕は、日本学術会議について議論がおきている。とても良いことではないかと思っている。
でも、このままでは堂々巡りだともおもう。

そして、本質をつく議論がなされていない気がする。

この問題は、実は私たち国民がどう考えるかにもかかっていると思う。
なんといっても、官房機密費ではなく国の予算という公的な税金の使い道の発露だからだ。
そして、科学立国の日本のアカデミズムを国民はどう考えるか、とても良いテーマだ。

政府とは独立した国の組織である点が重要な点だと思う。
文系理系の研究者も国民の一人であり、しかも多数存在する。研究者や教育機関の先生がたを含め、どう考えるかを自分なりに感じておく必要があるのではないかと思う。

僕は学士院の建物で会議をしたり、大学で研究しているときとか、厚労省の研究をしているときとか、ほんの少しだけ接点があった。

☆☆☆

たまたま最近、患者さんに経済のプロの人がいらして、株主、会社、社長、経産省などの話をしていたところだった。大規模な飲食店がTOBになった背景やその仕組みも教えてもらった。

患者さんから、毎回疑問に思っている会社のしくみやM&Aについてレクチャーいただけるのは幸せだ。

学術会議の議論も少し似ていると思った。
いろいろな記事を読んだけれど、僕の考えは船田元さんに近い

アニメのアトムで描かれているように、サイエンスは人のためにも兵器にもかわる。
遺伝子改変技術Crisper/CAS9がノーベル賞を獲得した。病気を治すことに使えるけれど、同時に受精卵の遺伝子改変にも使える。

他者への共感を持たない強靭な肉体だけを持つ兵隊にふさわしい人間を量産することだって可能かもしれない。

サイエンスの進化は、人類にとっていつも諸刃の剣だ。

☆☆☆

どんな時に学問が人を苦しめることになるかを考えるとシンプルで単純だ。
それは、「誰かが科学技術を正義に反して使うとき」だ。

正義の定義は難しいけれど、カント的な定言命法的なものだと思うとよいのではないかと思う。どの人にとっても条件なしに道徳的に良いものという意味だ。

だから、正義は自律して能動的で自発的だ。
決して功利的な仮言命法ではない。

☆☆☆

日本は、資源がないから戦後の復興の時に科学立国になることにした。
そして、その技術を平和と人類の繁栄のために、つまり正義の元に使うと決めた。
そのアカデミズムは、色々な意図とは独立して存在すべきで悪用されてはいけないと考えた。
そして様々な考えを持つ学者さんたちが、政府と独立した国の機関として学術会議を作った。
門外漢だから、間違えているかもしれない。

もしそうであれば、学術会議という会社の株主もしくはステークホルダーは、国民そのものだ。
政府は監督庁にあたるだろう。

監督庁である政府は、学術会議が会社として正常に運用されていれば、その内容には関知しなくてよいはずだ。きちんと納税していれば税務署は仕事の内容に口出しはしないだろう。

もし、学術会議が政府のために奉仕する組織であるのなら、政府の思惑に従う会社にしなくてはいけない。そこが明確になっていない。日本学術会議自身はどうしたいのだろう?

国のものと政府のものは明確に分けて考えるべきものだ。

時の政権が、国のものである北海道をどこかに売却するといいだしたら、みんなびっくりするだろう。そういうことだ。

政府は、ある時間、国のまつりごとを担当する事務方であって、国の持ち主ではないからだ。国は、国民みんなのものだ。

☆☆☆
日本学術会議がやらなくてはいけないことが2つあると思う。
説明責任と覚悟だ。

学術会議には、国民への説明責任があると思う。

説明すべきことはたった一つの事だ。

自らの存在理由と、これからどうしていきたいかの未来への自分たちの希望だ。国民に問う必要があるし、僕たち国民はどんなアカデミズムを望むかそれぞれが考えておくといいと思う。

日本の科学がマッドサイエンティスト化することを阻止するために、政府と独立した国の組織として学術会議が存在していくという覚悟があるかどうか、それが問われている。

それなのに、レジ袋では先が思いやられる。あぁ。他の先生がたもガッカリだろう。多様性を認めてください、と政府におねがいするのなら、すでにそれはもう、日本学術会議が独立したものでなく政府のお抱えの機関ということだ。

既に存在する多様性を否定するのはオカシイ、と政府に注文できない時点で腰砕けになっている。それならそれで良いけれど、そう明言すべきだ。

アカデミズムが、時の政権の政府と一体化して進んでいくというのも一つのやり方だ。政府の指導を受けて研究開発を進めていけばいいだけだ。政府が反対するものは、研究しなければいい。政権が変わったら、研究内容も変えればいい。教授が変わったら、前の教室員がみんなやめて教授のテーマをやる新医局員だらけになるのと一緒だ。政権が変われば、アカデミズムの構成員も交代する。それでもいい。

だから論点の中核は、多様性なんかではない。学術会議の存在理由と中の先生がたの覚悟だ。

そもそも学問は自由なのだから介入はオカシイという議論も虚しい。国家の税金をつかっているのだから、予算をいただく覚悟と費用対効果の存在理由を示す必要がある。

本当はそこが、議論の核なのではないかと思う。
そして、政府は「お尋ね申す!」と疑問をなげかけたのだろう。どうしたいのか?覚悟はあるのか?と。

レジ袋!←NOW 今はここだ。僕は、平和でほのぼのした日本が大好きだ。

☆☆☆

研究者はバックトゥザフューチャーのドクみたいな人がいいなぁと個人的には思う。人に言われたわけでもなく、自分が好きなことを突き詰めてやる自律的な研究者だ。

セレンディピティは、イグノーベル賞のようなところから生まれるものだ。
ワニに窒素ガスを吸入させて声を変えるなんてノーベル賞級だ。声帯をもたない爬虫類だって声がドナルドダックになる。

ノーベル賞を量産している日本は、自由な土壌があったからこそだと思っている。
政府も、耳が痛かったり、嫌だなとか、しょうもないなぁと思う研究があっても大目にみるべきだ。そうやって、アカデミズムの園の自由と平和と多様性が担保されることが日本の発展につながるからだ。そこが落としどころになってほしい。

自由闊達な心の動きが無いと、自然科学は絶対に進歩しない。

僕は、学問は色々なしがらみからフリーで多様性があってほしいと願っている。研究者自身の幸せのためにも。

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